日本ミャンマー未来会議

帰国までの時間、わずか8時間30分。 戦後70年以上たった今でも帰れない人たちがいる

大東亜戦争の中でも最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」。

飢えやマラリアなどの病気で消耗した兵士たちがばたばたと倒れた退却路は「白骨街道」と呼ばれました。終戦から70年以上たった今なお4万5000柱が未帰還のまま。長らく外国人の立ち入りが規制されていた現地では、今でも旧日本兵の遺留品が数多く残され、日本に帰れない遺骨が眠っています。

インパール作戦とはー

「大東亜戦争で最も悲惨で愚劣な戦い」

インパール作戦は大東亜戦争時、連合軍の補給路である「援蒋ルート」を遮断するため、英軍の反攻拠点だったインパール攻略を目的に1944年3~7月に実施された作戦です。

日本陸軍は3師団で約9万人を投入しましたが、食料や薬、武器弾薬の補給の見込みもないずさんな計画に加え、地形的にもミャンマー、インド国境に横たわる標高2000m級の山岳地帯、森林、河川を超えての無謀な作戦が強行された結果、全軍壊滅状態に陥り、1師団の独断退去を機に作戦が中止されました。

戦場は隣のコヒマにまで及び、山々、谷、街道にはおびただしい数の日本兵の遺体が横たわりました。退却路となったインパールからコヒマに至る現在のアジアハイウェイ1号線は「白骨街道」と呼ばれたのです。

戦闘に加え、栄養不良、餓死やマラリア、コレラ等が原因で、帰還兵はわずか1万2000人ほど。「大東亜戦争で最も悲惨で愚劣な戦い」とも「世界の陸軍史上最大の汚点」ともいわれる悲劇が、今なお現地にとり残されたままなのです。

コンセプト

旧日本軍兵士の遺骨調査・帰還に関するサポート活動。さらに、ミャンマーでのビジネスや事業を計画して、長期的な遺骨調査の活動、少数民族地域に仕事や教育の支援を図ります。

井本勝幸さん ご挨拶

「不撓不屈」

先祖先達を蔑ろにしたままの未来作りは真の未来を招かず。

私がミャンマー(旧ビルマ)に関わってから既に長い年月が過ぎました。その間、対等な権利や自治権を求め60年余にわたる内戦を続けてきた少数民族武装勢力各派を連合体(UNFC:ビルマ統一民族連邦評議会)としてひとつに纏め、テイン・セイン政権(当時)との和平仲介に奔走する一方、彼等少数民族地域の復興と地域住民の自立のためにシャン州、カヤー州、カレン州、モン州で農業事業を展開して来ました。

弱者である少数民族側に立った和平仲介は功を奏し、これまでに10の主要な武装勢力がミャンマー政府との間に停戦合意を結び、民主化の恩恵を被ってこれなかった彼等の地域もその恩恵を共に享受できるようになってきました。

そんな中で彼等少数民族武装勢力各派から私への恩返しとして提案されたのが日本兵遺骨収集への協力でした。70有余年の過去にミャンマーの地で戦病死された日本兵の方々は、大戦後も継続してきた内戦のために祖国日本に戻れぬまま今現在も約4万5千人が未帰還のままなのです。

取りも直さず日本の各宗派の僧侶有志の皆様のご協力とご支援の元に任意の「ミャンマー/ビルマご遺骨帰國運動」を立ち上げ募金を募りながら少数民族各派10チームの調査隊を動かし、これまでに推定2千~3千の遺骨の眠る場所を特定。2013年3月には先陣としてインパール作戦で亡くなられた10柱のご遺骨を帰国の途につかせ、日本の各界有志の皆様の協力で遺骨法案が国会を通過。後は国が率先して遺骨収集を行うものと膝を打って喜んだのも束の間、政府間合意が結ばれたものの未だに内戦が続くミャンマー北部地域や未だに停戦状態でしかない武装勢力地域すなわち反政府勢力地域での調査は一歩も進まず、募金は底をつき、歯噛みをしながら3年の月日が流れ去って行きました。

法案では国の責務を謳いつつも蓋を開ければ現地調査は引き続き民間に委ねるという現状は、お国の為にと散っていった彼等の帰国への道をさらに遠のかせている結果となっています。それは、しかし、裏返すならば、民間力が奮起すれば取り戻せることを私達に示唆しているとも言えます。

遺骨収集事業は当時を知る地元の古老達の記憶と証言に極まります。そしてその貴重な記憶は高齢化という波に飲まれ日毎年毎に失われつつあります。今やらなければならない事は彼等の記憶を記録として残すことです。遺骨が眠る場所を根気強く特定していくことです。それは、たとえ内戦があろうとも民間力でならば実行出来ることです。そして、それは、ミャンマー少数民族やミャンマー政府、ミャンマー国民の皆様と共にやっていけることなのです。

インパール作戦をはじめ、かつての日本軍は兵站(補給)の途絶によって負け戦を繰り返しました。今また遺骨調査も兵站(募金)の枯渇によって同じ負け戦を繰り返そうとしていました。兵隊はいるが武器が無い中、私が諦めればその時点で全てがゲームセットになってしまうではないかと気力だけを頼りに、各調査隊を励まし励まされつつ今日に到りました。和平仲介や復興自立支援でもこれまで何度も飲んだ煮え湯があったではないか。そして乗り越えて来れたではないか。不撓不屈、天は乗り越えられぬ試練は与えないはずだ。

果たして天はその声に木霊してくれたようです。この度此処に新たに日本の各界有志の皆様との御縁に巡り会い、本社団法人設立という類稀な機会に到ることが出来ました。この場をお借りして心より感謝致します。有難う御座いました。

戦地で亡くなられたままとなっている先祖先達の帰国が成らない限り、あの戦争は終わっていません。

過去に向かい未来に繋ぐ美しい日本でありたい。美しい日本人でありたい。美しい未来は今を生きる私達に掛かっているのだから。

日本ミャンマー未来会議
代表 井本勝幸 拝

井本 勝幸 Katsuyuki Imoto

1964年、福岡市生まれ、太宰府育ち。福岡県立筑紫丘高校、東京農業大学、立正大学卒業。2011年1月より、単独で反政府ビルマ少数民族地域へ。ミャンマー内戦停戦に貢献し、現在は、現地の協力を得て旧日本軍兵士のご遺骨調査活動も行なっている。日本経済大学特命教授。UNFC(統一民族連邦評議会)コンサルタント。GMSAEDC(メコン川流域圏農業教育開発センター)代表。タイ・日教育開発財団(タイ政府認可財団)最高顧問。NPO法人グレーターメコンセンター(日本政府外務省支援)副理事長。多くの人権賞、外務大臣表彰を受けている。

これまでの活動

  • 2010年 11月

    タイからミャンマーへ入国した際、戦場の有様に愕然とする

  • 2011年 1月

    ミャンマーの少数民族と同国政府との和平協議を目指して日本から単身移住

  • 2011年 2月

    主要11少数民族勢力でつくる「統一民族連邦評議会(UNFC)」を創設

  • 2012年 秋

    UNFC加盟各派及び未加盟各派より遺骨捜索の協力を得る

  • 2012年 12月

    「ミャンマー/ビルマご遺骨帰国運動」発足

  • 2013年 2月

    ミャンマー政府とUNFCの和平協議が開始

  • 2013年 12月

    少数民族地域4ヶ所に農業改良普及所(農業校)を設立

  • 2015年 3月

    約2000人分の遺骨の所在を特定、日本政府に調査結果報告

  • 2015年 10月

    ミャンマー政府と8つの少数民族武装勢力が停戦合意に署名

  • 2016年 3月

    インパール作戦で戦死した日本兵の遺骨10柱をミャンマーから帰還

  • 2016年 3月

    遺骨収集法案が国会を通過

  • 2018年 2月

    ミャンマー政府と2つの少数民族武装勢力が停戦合意に署名

  • 2018年 6月

    「日本ミャンマー未来会議」発足

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